前編「
動画の YouTube へのアップロードを「引用」として正当化できるか? という議論(前)」の続き。
ざっと見た限りでは、次のような批判や意見がある。(おおむね日付順)
なお、賛同するものも少なからずあったが、対立している点を浮かび上がらせる目的上、否定的見解を中心に取り上げることになってしまった。これを見て批判しか存在しないと誤解されぬよう。
その違いは何?(Kazu'Sの戯言Blog(新館)、2006年7月21日)
「番組の一部」という概念の曖昧さを指摘。
YouTubeを使った「引用」によるエントリーの合法性 アフィリエイトをどう説明する?(蛟、2006年7月21日)
「個人的体験の共有」を持ち出すのは性急であるとする。
YouTubeを使ったテレビ番組の「一部引用」の合法性に関する意見(good2ndの日記、2006年7月21日)
同じく、批評・批判などの正当な引用の要件が満たされれば良いのであるから、「個人的体験の共有」である必要はないとしつつ、次のような発展的な意見。
「問題になるのは、引用ではない形でその動画が送信されうるという部分になるんじゃないでしょうか。
じゃああれだ。YouTube のサイトで直接 (動画が「主」になった状態で) 見ることができなくて、引用してるブログと一緒に (動画が「従」になった状態で) しか見られないような仕組みになってたらどうだろうか。アップした動画を引用専用にする。「引用チューブ」。」
(「good2ndの日記」より)
YouTubeを使ったテレビ番組の「一部引用」の合法性に関する意見(アサメシマエ。、2006年7月21日)
「法律的にも引用には全くあてはまらない」と批判。
中島氏、薪をくべる(跳箱、2006年7月21日)
「引用の定義を拡大解釈しすぎ」と批判。
copyでないright、著作でない権利(404 Blog Not Found、2006年7月21日)
YouTube からの画像の引用は画像自体のコピーを伴わず、単なる「覗き穴」を開けているだけだという注目すべき見解。
今回のエントリでは検討対象とはできないのでここで簡単に思ったことを書いておくと、著作物の一体性というのは社会通念によって決せられる道具概念であるから、タグによる呼び出しであるから技術的には複製していないと言っても、法の適用の次元では「複製」があったと評価されるということになるだろう。法とは抽象的なものである以上、この乖離はやむを得ないと考える。
[著作権]動画の引用(memorandum、2006年7月21日)
注において、「『個人的体験の共有』では引用の用件を満たしていないと思うが」との意見。
YouTube の合法性に対する立ち位置(mohno、2006年7月22日)
主従関係に言及して「映像に対するコメントなんて明らかに『映像が主で、コメントが従』だ」と批判。
YouTubeにUPされた映像が「引用」といえるために(ビールを飲みながら考えてみた…、2006年7月22日)
「『YouTube』単体で捉えた場合、『引用』とは言えないだろう。」と批判。ただし、続けて次の意見。
「YouTubeが、少なくとも独立したサイトである限り、例えリンク先をBLOGなどに貼り付けることが可能であったとしても、「引用」という範囲を超えるだろう。
では、仮にBLOG提供事業者がそのデータ領域に各個人が動画をUPできる領域を設けた場合はどうか?あるいはYouTubeが動画単体を検索などして閲覧することができず、あくまで通常のホスティングサービスのように配信サーバを貸し出すだけだとしたらどうか?
こうなると(現在の著作権の扱いは別として)中島さんの説は俄然可能性を持つこととなる。」
(「ビールを飲みながら考えてみた…」より)
YouTubeにアップロードしている時点でよくない(F.Ko-Jiの「一秒後は未来」、2006年7月22日)
こちらでも、同旨の意見。
「映像に言及したブログにおいては主従関係が認められるかもしれません。しかし、YouTubeのサイト上にその映像がある以上、引用以前に公衆送信権の侵害となってしまいます。
もし映像の引用を許すとするなら、引用部分の映像はその引用先のブログからしか閲覧できないようにする仕組みが必要だと思います。」
(「F.Ko-Jiの「一秒後は未来」」より)
YouTubeを使ったテレビ番組の「一部引用」の合法性に関する意見募集(音楽リスナーとPCユーザのための著作権パブコメ準備号、2006年7月22日)
「引用と、youtubeを許容することに関係が見出せない」と結論付ける。
動画や映画や番組の一部を「引用」として使うことはできるのか(裏表(Phinloda のもう裏だか表だか分からないページ)、2006年7月22日)
スプーの例について、次の批判。
「ただ、現行の著作権法的には、それは「報道・批評・研究」の目的が必要だし、その分量が全体に対して「従」であることが判例から考えて必要条件になる。つまり、氏が主張している「個人的体験の共有」というのは、批評でも研究でもない。」
(「裏表(Phinloda のもう裏だか表だか分からないページ)」より)
[メモ] YouTubeを使ったテレビ番組の「一部引用」の合法性に関する意見(pyramid report、2006年7月22日)
単なる「個人的な体験の共有」目的では引用と言うには十分ではないだろうとの意見。
「引用」ムリ(albinoalbinism、2006年7月23日)
その点について、こちらも同旨。次のように述べられている。
「『作品』があって初めて『引用』が成立するんだよ。
『引用』を成立させるためには、まず自分がちゃんとした『作品』を作らなきゃ。
スプーの絵みてキモーとか言ってるだけじゃダメだろ。」
(「albinoalbinism」より)
YouTubeをどうやったら引用だって思えるんだろうか。。(暴想、2006年7月27日)
引用かどうかを決定するのは「番組の一部」などという分量ではないと批判。
YouTubeを使ったテレビ番組の『引用』の合法性に関する一考察(blog-mnagaku's BLOG-IGDA Japan chapter、2006年7月27日)
引用の成否に関して、次の意見。
「ただ、YouTubeとblogを併用する手法では、blogの言及と関係なく、YouTubeで映像を見るだけの行為が成り立つので「引用」というのは難しいでしょう。」
「となると、この先、ぽこぽこ出てきそうなvlogサービス事業者が、映像とblogを不可分のものとした時に、このアイデアの出番が来るかも知れません。」
(「blog-mnagaku's BLOG-IGDA Japan chapter」より)
量が多くなってしまったが、さしあたり、以上のような意見を目にした。
このように批判を並べてみると、概ね次の諸点が議論になっていることがうかがえる。
・引用の要件としての主従関係
・引用の分量
・「個人的体験の共有」は引用の目的として十分か
(以上、引用の要件に関するもの)
・動画が YouTube のサイト内単体でも見られるという仕様
このうち、引用の要件に関して、この成立を頭ごなしに否定する意見と、認められる場合があると考える肯定的な意見とがある。これは要件の解釈ではなく、むしろ問題設定にズレがあることから生じる対立ではないかと思われる。
即ち、現在多くのブログで行われている「スプーの絵みてキモーとか言ってるだけ」(©「calbinoalbinism」)の状態を前提にそれが引用となるかと考えると否定的になるけれども、肯定論は現状を前提とするものではなく、あくまでも論理的には引用が成り立つようなブログもありうるとしているわけである。
現状を前提に否定的に考える場合でも、肯定される場合がありうることまでも否定する趣旨ではないと思われる。
それでは、どのような場合を仮定すれば、それは引用と言えるのだろうか、が次に問題となる。
この点についての対立は、特に「個人的体験の共有」というキーワードをめぐって生じている。(ついでに本エントリ最下部の補足も参照。)
発端となった「中島聡・ネット時代のデジタルライフスタイル」では
ブログの主目的は「個人的体験の共有」とする ITmedia の記事を紹介しつつ、「個人的体験の共有」を目的とする動画の引用(っぽい行為)は(法律上の)引用と認められて良いと述べられているが、上に挙げたいくつものブログで批判されているように、広く理解を得るには至っていない。
ここで重要なのは、「Life is beautiful」では「結局のところ、...個人的体験の共有(が)...許容範囲と多くの人が思うようになるのか...が鍵である」として、あたかもここがクリアされれば YouTube と引用の問題に決着がつくかのように捉えているが、そうではないということである。
もし仮に「個人的体験の共有」目的があれば引用になると考えたとしても、だから YouTube にアップロードすることが許されるべきだとはならない。
上で引用した意見の多くに見られるように、各ブログでの利用は引用だと言えても、同じ動画が(引用部に包まれず裸のままで)YouTube のサイト内単体で見られることが依然として問題となる。
もっともその事実故に、だから主従関係がなく引用にならない、として引用の要件と結びつけて述べる意見があるが、これは正しくはない。論理的には、ブログで引用が成り立つことと、それが引用ではない形で見られることとは別の問題である。
そもそも引用とは何のための概念かというと、訴訟において著作権侵害だ(請求原因)として損害賠償請求や差止請求、不当利得返還請求を受けた際に、抗弁として機能するものである。侵害者(ふつうは被告)が、「自分の利用行為に関しては引用の抗弁が成り立っています」と主張・立証することによって、権利者(原告)の請求を退けられるわけである。
従って、引用が成り立つかどうかは、権利者の請求の相手方の事情に従って、相対的に決まる問題である。だから同じ YouTube の動画をブログに埋め込んで「引用だ」と言い張っている場合でも、ある人には引用が成立して、別の人には成立しない、などということがありうる。
その判断に際して考慮されるのは、侵害者の利用の態様、つまりそのブログにおいてどのような意図・方法で利用されたかであって、同じ動画が別の場所でも見られるということは(裁判官の心象に悪影響を与えることはあっても)引用の成否には直接は結びつかない。
簡単に言えば、引用が成り立つかどうかは、それぞれの人(ブログ)次第、ということである。
それに対して、そもそも引用しようと思う YouTube の動画の現物は YouTube のサーバ内に一つしかない。
そして、その現物が YouTube サイト内単体で閲覧可能である=そこでは引用とは言えないことを理由に、権利者は YouTube という利用行為主体
※註3に対して、その除去を請求できる。現物が除去されてしまえば、YouTube への埋め込みを介して「正当な引用」をしていたブログであっても、もはやそれが参照できなくなってしまう。
そこから、発展的な問題として、きちんと引用しているブログにおいては引き続き利用させてやるにはどうすればよいか、と考えることになる。
上では、そのような問題意識を持って、ブログと映像とを一体とさせるような技術(「引用チューブ」(©「cgood2ndの日記」))があればよいのではないかとする意見を多く引用した。
YouTube の動画を引用して合法的に利用するにはどうすればよいか、というところから出発すれば、行き着くところはそうなるだろう、と思う
※註4。
こうすれば、きちんと引用しているブログはそのまま合法的に引用し続けられるし、引用になっていないブログに対しては、権利者の権利行使がありうる。そうなるときちんと引用したい人にとっては望ましい状態ではあるが、しかし果たして、権利者にとってはどうだろう?
今の状態であれば、YouTube 本体を叩いてそこから除去させればそれで芋づる式に他のブログからも消せる。しかしブログごとに引用になっているかどうかを判断し
※註5、引用になっていない多くブログには個別に措置を講じなければならないというのでは、監視が大変だろう。今でさえ無法地帯などと言われているのに、それ以上の混沌が生じかねない。
そうなると、たとえ YouTube(や、その後続サイト)がブログごとに個別に引用による利用を認めるような仕様を採用したところで、権利者はあの手この手で知恵を駆使して YouTube 本体だけを叩けば済むような解釈論
※註6を持ち出してくるだろう。
それでややこしいことになるくらいであれば、今の YouTube 元締め制を維持したうえで、本気で引用したいブログでは YouTube に頼らずに自前でファイルを準備
すべきではないだろうか。そもそも引用否定説が前提とするように、本気で動画の引用を必要としているブログは僅少に過ぎないという実態もあるだろうし、それに「個人的体験の共有」程度の引用であれば、それが話題になる数日程度利用可能であれば十分だとも言えるかもしれない。
実際に、こちらのブログでは、動画ファイルを引用のために自前で準備されていた。
ああ! 素晴らしきかなTBS金平体制(大石英司の代替空港、2006年7月27日)
「あと、TBSはこの問題で、ネット上に流出した動画データを速攻で削除させている様子ですが、少なくとも当方では応じる気はありません。
(中略)
3.ジャーナリズムを巡る大きな問題であり、この問題を誤解無く論じるためには、その映像そのものの使用が不可欠であると判断され、これは著作権を考慮する上での排斥事由に該当するものと判断されるし、著作権法上許される「引用の範囲内」である。」
(「大石英司の代替空港」より)
というわけで、結論。
ブログ上でも正当な引用は認められる。
ただし YouTube の動画を埋め込んで引用とした場合には、それが正当な引用であったとしても、元締めが一つであるという仕様上、ファイルが削除されてしまうことがある。
「個人的体験の共有」などという必要性の低い引用については、権利者が気付かないために数日間 YouTube で利用可能になっていた、程度の反射的利益に与ることで十分だろう。
本気で引用したいならファイルを自前で用意してきちんと引用すればよい。そこではもはや YouTube は関係ない。
という感じ。
---
最後に、本文に溶け込ませにくかった「ブログにおける動画引用の要件は、実社会での文章引用の要件と異なるところがあるのか?」という点について補足。
いままで実社会において文章での引用が認められていたケースの中にも、本当に引用の抗弁が成り立つから合法とされていたものもあれば、引用にはなってないから権利者からの請求は立つけれど、現実問題として権利行使されていないというグレーなものもあった。従って、文章で広く OK だったのだから、動画でも OK だとは論理的にはいえない。
ブログにおける動画形式での引用の中にも、本当に合法な OK のものもあれば、本当は違法だけれど権利行使されないものもありうる。
そして、文章に比して動画にはコストがかかること、実社会に比してネット上では権利者への不利益が大きいことなどを考慮して、現実問題として権利行使しようと思う権利者が増えてもおかしくはない。
つまりネット上での動画の取締りが厳しいように見えるのは、引用の要件が加重されているからではなく、むしろ実社会において権利行使されていなかった領域が広かったことを意味しているに過ぎない。
なお今回の YouTube の引用の可否について、主従関係と明瞭区別性というパロディ事件最高裁判決の引用判断基準に全面的に依拠して否定的見解を述べるブログが多かったが、一応補足しておくと、現在の学説や裁判例においてはこの基準は必ずしも堅持されていない
※註7ことに注意すべきである。
---
註3:電子掲示板の書き込みの公衆送信主体は掲示板管理者ではなく投稿者本人であるとした先のエントリ「
電子掲示板に投稿された著作物の公衆送信主体について」と矛盾して見えるかもしれないが、あちらは公衆送信、今回は複製の話なので、矛盾はない。
註4:いろいろなブログをみて回る前に考えたのも、正に同じことだった。そういう意味で、みんな考えることは同じだなあ、と。
註5:引用は抗弁であるから権利者が判断する必要は無いのだが、請求が認められるかの計算の段階では、予想される抗弁がないこともちゃんと確認しておく事実上の必要はあるだろう。
註6:カラオケ法理に連なる侵害主体の拡張過程を想起されたい。
註7:上野達弘「引用をめぐる要件論の再構成」半田正夫先生古希記念論文集『著作権法と民法の現代的課題』(法学書院、2003年)参照。