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夢の国
ここはフリー百科事典ウィキペディア (Wikipedia) 日本語版の利用者であるCarbuncleによる、ウィキペディアに関すること・関しないことについての覚書のためのサイトでした。2007年4月以降は一応凍結中ということになってますが、稀に更新するかもしれません。

この画像の著作権表示を見る[Wikipedia] ウェブサイトとしてのウィキペディアという存在に対する違和感 [link]

タイトルで違和感と書いておきながら、まだ自分自身よく把握できていない些細なもやもや感なので、うまく言葉にして伝えられる自信は無いのですが、それでも、今書いておかなければならないような気が強くするので、上手く伝えられないことを承知の上で書きます。
以前のエントリで、
「各コンテンツはGFDLにより自由に改変・頒布されていくものなので必ずしもウィキペディアというサイトでその作業が行われる必要はないのに、あたかもデータと一体をなすかのように「ウィキペディア」というブランドが広く認知・信頼され、(それがGFDLの厳密な条項に従えば必ずしも言及しなくても良い名称であるにもかかわらず)個々の投稿者を代表するかのように扱われていることに対する違和感なのかなあという気がします。(自分でも書いててよく意味が分かってないけど。)」

と書いたのの続きです。


はじめに基本的な大原則として、ウィキペディア(以下では主として日本語版を念頭に置いて書きます。)がその成果物を「オープンコンテント」としているという点を確認しておく必要があるでしょう。
このことは[[ウィキペディア]]自身が、
「オープンコンテント方式を採用。参加者によって投稿された内容をコピーレフト用のライセンスの一種であるGFDLの元に公開しており、複製・配布・改変などが容易にできると謳われている。」

と解説するところです。
オープンコンテントとは、ウィキペディアの成果物の文脈で言うならば、コンテンツを特定の人や組織に独占させるのではなく、一定の条件の元に、その複製・改変・再配布を誰に対しても自由に許可するという状態だと説明できます。

ここではコンテンツが囲い込まれること無く、広く流通に置かれるという図が想定されています。
具体的には、αさんが創作したコンテンツが、一定の条件の元では、αさんの個別の許諾無くβさんによって複製・改変・再配布され得る状態にあれば、そのコンテンツはオープンコンテンツとして流通に置かれることに成功したと言い得るでしょう。
この「一定の条件」というのが、ウィキペディアの場合では、GFDLというライセンスによって示されているわけです。


しかし翻ってウィキペディアというサイトを観察してみたとき、そのコンテンツの流通性が十分に確保されているかは疑問です。
まずウィキペディア内での流通について考えてみましょう。
サイト内での流通、というのはおかしな言い回しに聞こえますが、流通というのは便宜的な説明であって、その実体は自由な複製・改変・再配布のことです。
サイト内では、GFDLのウィキペディア上での適用についての解釈を示すことで([[Wikipedia:著作権]])、「一定の条件」を明確にし、項目Aに関してαさんが投稿したコンテンツが、βさんによって別の項目Bにおいて利用(複製・改変・再配布)され易い状況を作り出し、コンテンツの流通性を確保することに概ね成功していると言えるでしょう。
中でも、同じ項目Aの内部で改変を加える場合であれば、特にGFDLの煩雑な条件に従うことを考慮する必要が無いようなシステムになっているのは素晴らしいことです。

このサイト内での流通性というのは、フリーソフトウェアの開発に喩えて言うならば、ある特定のソフトウェアを制作する際の開発関係者の内部的な関係に過ぎません(新しいバージョンを創作した際に、古いバージョンのソースコードを盗用していると文句を言われない、という問題。)。
ですがLinuxを初めとするフリーソフトウェアが一大ムーブメントとして発展を遂げたのは、ある特定のソフトウェアそれ自体に留まらず、そのソフトウェアを利用した別のソフトウェアの制作が認められていたのが大きな理由でしょう。

ウィキペディアについても同様に、ウィキペディアというサイト内に留まらず、その外部での利用が認められているはずですが(オープンコンテント方式なわけですから。)、現実にはそのような例は多くは見られません。
それはなぜかというと、一つにはGFDLという訳の分からないライセンスが難解すぎて積極的に利用する気にならないというのがあるでしょう(おまけに、[[Wikipedia:免責事項]]には、ウィキペディア内部のコンテンツでも全て厳密にGFDLに従ってるわけではないので、外部で利用する際には自己責任で使ってね、という趣旨の注意書きがあります。)。
また一つには、ソフトウェアと異なり、百科事典的コンテンツの面白い利用方法が見当たらないというのもあるでしょう。babylon にせよ weblio にせよ、下のエントリで教えていただいた news.2ch2.net にせよ、たまたま今日見かけたTVバンク、絞り込み検索など動画検索をアップグレード。広告表示も開始(BroadBand Watch、2月22日)という記事で紹介されているTVバンクにせよ、どれもただ単にウィキペディアのコンテンツを語句説明として利用しているだけで、面白みのある利用方法ではありません。
それに、ウィキペディアのコンテンツをそのまま利用するのであれば、ウィキペディアというサイトがインターネット上で利用可能である限りにおいて、そこへの能動的なアクセスの手間を減らすという以上の意味は持ち得ないでしょう。
ちょっと面白いなと思った利用方法として、日本語変換ソフトを作成するにあたって、辞書データのためにウィキペディアの文章データを取得して形態素解析して利用するという話を知り合いから聞いたことがありますが、これはまあ、厳密にいうと著作物の法定利用行為ではなさそうなので、オープンコンテントであるが故の面白い利用方法とは少し違うかなという気がしています。

そしてまた別の理由として、「ウィキペディアという『場』(=サイト)」と、「ウィキペディアという場で大勢の人が作り上げたところの成果物であるコンテンツ」とが同じ「ウィキペディア」という用語の中で一緒くたに観念されているが故に、コンテンツだけを独立して利用するという発想がそもそも浮かびにくいのではないかという点を最近考えています。(サピア・ウォーフの仮説?)
「Linux」が開発プロジェクトやグループ名ではなくソフトウェア自体を指していると理解されているように、また、「エンカルタ」がコンテンツ、「Microsoft」がグループと理解されているように、いつの日か「ウィキペディア」がコンテンツ自体の名称として理解される時がくれば(これは別に「ウィキペディア」がサイト名であって、コンテンツ名は別に名づけられるというのでも構いません。)、そのときこそオープンコンテンツ方式で作られた百科事典的コンテンツがその真価を十分に発揮する(「ブレイクスルー」と表現しましょうか。)時なのではないかと考えています。


さて、以上をまとめると、「ウィキペディアのコンテンツ」は本来流通性を持っているはずなのに、それが「ウェブサイトとしてのウィキペディア」の外部では有効に利用されておらず、あたかも「ウェブサイトとしてのウィキペディア」に囲い込まれているように見えてしまうということが、冒頭に述べた違和感の原因なのではないかという気がしてきました。
コンテンツの流通性を高めるためには、「囲い込み」に見えてしまうこの状況を改善し、「囲い込み」状態を撤廃しなければいけないでしょう。



しかしその一方で、囲い込みが弱すぎるのではないかという、真逆の方向からの違和感も感じていたりします。
どういうことかというと、ウィキペディアのコンテンツは既に述べたような流通性を持っていますから、極端な話、ウィキペディアの運営とは全く関係のない人が、その既存コンテンツを使ってウィキペディアと似たWikiシステムのサイトを構築し、更なる魅力を付加し、宣伝を行えば、いまウィキペディアというサイトでウィキペディアというコンテンツの改良に参加している人がそのままそちらに奪われてしまい、最終的にはウィキペディアというサイトには閑古鳥が鳴き、このプロジェクトが失敗に終わるという可能性もゼロではありません。
(オーマイニュースのように、2000円程度であっても原稿料の支払いがあるようなシステムがあれば、そちらへ人が流れるかもしれません。この辺りはウィキペディアに投稿するインセンティヴは何なんだろうと前から考えているところで、全然結論は出ていないのですけれど。)

このときウィキペディア(日本語版)としてはどのような対応ができるのかと考えると、日本語版の運営主体としての法人が存在しない、権利能力なき社団と言えるかも怪しい、商標の管理もどうなっているかはっきりしない(マドリッド協定議定書で保護されているのだと根拠もなく信じているのですが、確認したことはありません。)、という状況ですから、そういうフリーライダー(ただ乗り)を止めさせるのは難しそうです。
「ウィキペディア」という商号を用いて需要者に混同させるような不正競争行為一つ差止めるのだって、原告適格という段階からしてもう簡単にはいかない(あ、ちなみに特定の企業の行為を不正競争行為といっているわけではなく、あくまでも一般論です。念のため。)。
そうなると、やっぱり運営周りの仕組みぐらいはきちっと作っとかないとまずいのではないかと思うわけです。

ただ、既存のコンテンツに他人がただ乗りする行為、これはオープンコンテントである以上仕方ないというか、むしろ望ましいことです。
その場合でもGFDLの課す一定の条件には縛られるわけですから、コンテンツの流通性は損なわれません。
ウィキペディアというサイトは衰退しても、ウィキペディアのコンテンツは生き残るわけです。
(そうなると、上で言った「ウィキペディア」という概念内のサイトとコンテンツの分離の必要性というのは、フリーライダーが登場してウィキペディアのコンテンツを用いながら「ウィキペディア」以外の名称を名乗ることによって、必然的に自覚されることになりますね。)

フリーライダーを許さず、ウィキペディアのコンテンツは今後もずっとウィキペディアのサイトで改良・提供していきたいと願うのであれば、運営回りの仕組みをきちんと確立して、「囲い込み」を強化しないといけないでしょう。



そういうわけで、後半では「囲い込み」が少し弱いのではないかという違和感について触れました。
前半では「囲い込み」を撤廃すべきだと述べ、後半ではそれを強化すべきだと述べましたが、この両極端な意見のどちらを支持するべきかは、「ウィキペディアというサイト」の存続価値があると思うかどうかによって異なるでしょう。
「ウィキペディアというサイト」の持つ歴史を重視し、それによって生じたブランドを保護・維持していくべきだと考えるのであれば強化を、ウィキペディアという試みが生み出した最も重要なものはそのコンテンツであり、これがあれば「ウィキペディアというサイト」でなくても構わないと考えるのであれば撤廃を志向することになりそうです。

個人的にはまだどちらとも決めかねていて、その結果こういうどっちつかずの違和感を吐露することになったわけなのですが、ウィキペディアのコンテンツの利用方法の「ブレイクスルー」が起こった暁には、コンテンツ自体を重視する方向に転びそうな予感がします。
(後から気付いたけど、エントリのタイトルが既にそのような視点から考えていますね。)

……冒頭で宣言したとおり、まとまりのない文章になってしまいましたが、議論の端緒となることを願って。

追記:
最近また話題に上っている中国政府がウィキペディアへのアクセスを遮断しているという話に関して、ウィキペディアというサイトが問題なのではなくウィキペディアというコンテンツが問題なのだろうと思うので、ここでもサイトとコンテンツの一緒くたが見られるよねという話を本文中に書くつもりだったのだけれど、本文の手直しをする気力が無いので追記で。
それにしても、流通するコンテンツって、公開しているサイト単位でアクセス遮断しても効果がないですから、それへのアクセスを一切遮断したいと思う人にとっては厄介な存在ですよね。


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2006年02月22日23時17分12秒


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